現代社会ではスマホ片手に瞬時に時刻を把握できるが、江戸時代の人々は一体どうやって時間を刻んでいたのだろうか?今回は、そんな素朴な疑問から始まった、時間と暦を巡るタイムスリップツアーへご招待。
前提知識・背景
現代ではスマートフォンや電波時計によって正確な時刻が自動調整されるのが当たり前ですが、江戸時代の人々がどのように時間を知り、生活していたのかは興味深いテーマです。当時、西洋から伝来した機械時計が日本の生活にどう溶け込み、時刻合わせが行われていたのか、その具体的な方法に疑問が投げかけられています。
特に、江戸時代に普及していた「不定時法」という独特の時刻制度や、それに合わせて進化を遂げた「和時計」の存在、そして時の鐘のような公共の時報システムは、当時の技術と文化、そして社会の時間に対する捉え方を理解する上で非常に重要です。
騒動の経緯・時系列
スレッドは、江戸時代の時刻合わせに関するシンプルな疑問から始まりました。当初は寺の鐘や日時計といった素朴な方法が挙げられましたが、幕末の西洋時計の伝来や徳川家康の時計所有といった情報が投下されることで、議論はより深い層へと展開します。和時計の複雑な機構や、不定時法という日本独自の時間の概念、さらには暦の改定や天文学者の存在にまで話が広がり、最終的には「現代の時計を持つ人が当時の状況で時刻のズレにどう対処したのか」というイッチの核心的な疑問へと収束していきます。
疑問の始まり – 庶民の時間感覚と最初の手がかり
なるほど、最初のレスは素朴な疑問への直球回答だ。寺の鐘や日時計という、いかにも江戸時代らしいアナログな時報システムが挙がっている。
和時計と舶来品 – 技術と異文化の衝突
そもそも徳川家康が時計持ってる
まあ西洋と暦が違うから家康はインテリアとして置いてたらしいが
変則的な日本の時刻形態にも対応するやつ
だから季節によって時刻は結構変わってるってテレビか何かで見た気がする
鐘で合わせてたのかな
そのためのこよみもあるやろ
そうか、影が一番短い時を正午に合わせたええんか
本所に天文台あってそこで観測しとったからな
同じ刻の時間が夏と冬で違うんだよな
今で言う腕時計だな
イッチの問いは深まるばかり。徳川家康が西洋時計を所有していたというまさかの情報も飛び出し、話は一気に和時計の匠の技と不定時法の謎に。日照時間で一刻の長さが変わるって、現代人にはもはやファンタジーの世界だ。
暦と天文学 – 時間の根源を探る
江戸時代はそこそこ知られてたというか精度良くするために改暦もしてる
それ以前は一般人がどれだけ知ってたかは知らん
中国から伝わった暦使ってたけど
江戸時代から日本で作るようになったんやっけな
中国で作られたものやと
緯度経度の誤差はでるやろし
月のこよみで水無月とかあれも目安にしてるよね
お月さん基準にしたら1年で1月ぐらいズレるんやっけ?
1年で11日くらいずれるから3年に1度くらい閏月作ってた
生活は日の出とともに始まり日の入りで終わるでいいやろうけど輸入品とかの時計ゲットできた殿様とかの所有物の時計そのものの時刻合わせはどうしてたんや?と言う疑問や
機械式腕時計とかどうやって時刻合わせしてたんやろ
渋川春海(しぶかわ はるみ 1639-1715)をご存知だろうか。 日本独自の暦を作り、日本初の天文学者とされる江戸時代の人物である。 新しい暦を編纂した功績により、江戸幕府初代の天文方≫1に任命された彼は、天の動きを正確に理解するために自ら装置を作り、天体観測を行なった。
数学も進んでたっていうし天文方とかいう役職もおるなら時間に関しては割と正確だったんじゃなかろうか
いや、天体とかを基準に歴や時刻を決めてたんなら尚更標準時を設定した時になんじゃ?こりゃ?みたいになったんとちゃうかな?と思ってな今でも関西基準に九州や関東とそれぞれ1時間ぐらいの時間の感覚のズレあるし
暦の話から閏月、そして渋川春海という歴史的キーパーソンの登場で、議論は一気に知的な高みへ!しかし、イッチの疑問は「輸入時計の殿様の時刻合わせ」という、なんともパーソナルな部分にフォーカスされ続けているのが面白い。
時の鐘とゆるやかな時間 – 江戸の時間管理システム
江戸は鐘のリレーやってたってあるな
最初に日本橋の鐘楼の鐘がなると
それを聞いた寺院が鐘を鳴らして
んでさらにそれを聞いた寺院が鳴らす
なんでこんなムダにムズイ時間の測り方してて
そしてなんでそれを時計にできんだよってビビる
漏刻使ってそれで時報やったそうやけど
朝廷はいつまでやってたんやろ
今の時計とは違うよ
江戸時代までは、十二支をそれぞれ四分割した48分割時
今で言う30分が1つの時間の区切り
殿様とか輸入品であろう1周12時間の時計ゲットした人の所有物に関してや
環状列石は冬至や夏至の測量施設だよ
だから夏と冬の日の出が違うから、卯の刻も夏と冬で違うんだったか
時間がくると寺が鐘を鳴らしてた
江戸時代人はお前らが思うよりよっぽど優秀で知的
数学も天文学も世界トップレベル
ただの商人だったオヤジが50歳超えて持ち前の数学と天文学で当時世界ダントツトップの精度の地図を作るレベル
今風の時計持ってる人が「あれ?ワイの時計めっちゃズレてね?」ってなった時に合わせてた方法への疑問や
ついにクライマックス!時の鐘のリレーシステムや天智天皇の漏刻といった公共の時報から、十二支による時間分割、そして「不定時法」の奥深さに触れることができた。だが、イッチの最後の問いかけは、やはり「殿様の高級輸入品時計」というピンポイントな部分。このこだわり、嫌いじゃないぜ!
知的好奇心
昼夜で長さが変わる「不定時法」と和時計の驚くべき適応
江戸時代に日本で用いられていた「不定時法」は、現代の私たちには想像しがたい時間の捉え方でした。これは、日の出から日没までを昼、日没から日の出までを夜とし、それぞれを六等分して時刻を数えるというもの。そのため、夏は昼の一刻が長く、冬は夜の一刻が長いという、季節によって時間の長さが変動するユニークな特徴を持っていました。このシステムに対応するため、西洋から伝来した機械時計は日本独自の進化を遂げ、「和時計」として生まれ変わります。和時計には、昼夜で歯車の回転速度を自動調整する「二挺天符」や、季節に合わせて文字盤の目盛りの間隔を変える「割駒式」といった、非常に複雑で精巧な機構が搭載されていました。まさに、当時の日本の職人技の極致と言えるでしょう。この技術は、現代の時計技術者をも唸らせるほど洗練されていたのです。(出典: gakken.jp, seiko.co.jp)
庶民の生活を支えた「時の鐘」のリレーと時間の緩やかさ
貴族や富裕層が和時計を持つ一方で、江戸の庶民が時刻を知る主な手段は、町中に響き渡る「時の鐘」でした。これは単なる鐘の音ではありません。日本橋の鐘楼から最初の鐘が鳴り響くと、それを合図に近隣の寺院が順々に鐘を鳴らし、その音がさらに遠くの寺院へと伝わっていくという、まさに壮大な音のリレーシステムでした。(出典: edo.net) 時の鐘は、最初に3回の「捨て鐘」を鳴らした後、その時刻の数だけ鐘を撞いて時刻を知らせるという工夫も凝らされていました。このシステムにより、町全体で共有される緩やかな時間感覚が形成され、現代のような1分1秒を争うような厳密な時間管理は必要とされませんでした。人々の生活は太陽の動きや自然のリズムと密接に結びついており、この「おおらかな時間」が当時の社会を特徴づけていたのです。(出典: solution-partners.biz)
天文学者・渋川春海と日本独自の暦の誕生
江戸時代には、後の日本の時間管理の基礎を築いた重要な人物がいました。それが、日本初の天文学者とされる渋川春海です。(出典: chicappa.jp) 彼は、それまで中国から輸入された暦を使用していた日本において、日本独自の暦「貞享暦」を編纂したことで知られています。(出典: nao.ac.jp) これは、自ら装置を製作し、精密な天体観測を行った結果生まれた画期的な功績であり、江戸幕府初代の「天文方」という役職に任命されるきっかけとなりました。(出典: nao.ac.jp) 彼の功績は単に暦を改定しただけでなく、当時の日本における科学技術、特に天文学と数学のレベルが世界トップクラスであったことを示しています。渋川春海らの活躍がなければ、日本の時間制度が近代化する際も、もっと混乱が生じていたかもしれません。彼の仕事は、後の明治時代に定時法や標準時が導入される礎となり、現代の私たちの時間感覚にも間接的に影響を与えているのです。(出典: kotobank.jp)
