
日本の歴史において、最も有名な戦いの一つとして語り継がれる「関ヶ原の戦い」。東西合わせて17万人もの大軍が激突したとされるこの戦で、なぜ死者がわずか5000人にとどまったのか、現代の我々には不可解な疑問が残ります。果たして、天下分け目の大戦に臨んだ兵士たちは、本当に“やる気”があったのでしょうか?
【前提知識】関ヶ原の戦いの疑問
1600年(慶長5年)に現在の岐阜県関ヶ原町で勃発した関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突した、日本の歴史上極めて重要な合戦です。この戦いの勝敗は、その後の日本の統一と江戸幕府の成立に直結し、「天下分け目の戦い」として語り継がれています。しかし、その規模や実態については、東西合わせて約17万人が参加し、死者はおよそ5000人にとどまったという説が根強く、一部からは「これだけの規模の戦いで、なぜ死者が少ないのか」「兵士たちは本当にやる気があったのか」といった疑問が呈されることがあります。
天下分け目の戦い、その実態への疑問
そりゃそうよな
関ヶ原の場合は特に縁もゆかりも無い徳川と石田のための戦いだしみんなやる気無かったんやろ
スレ主の素朴な疑問から始まった本スレッド。早速、「兵士のやる気」という核心に迫るレスが飛び交います。自身の利害や地位が関わらない限り、人は本気を出さないという意見は、いつの時代も真理なのかもしれません。特に、動員の大部分を占めたとされる農民兵のモチベーションは低かったという指摘は、この戦いの本質を考える上で示唆に富んでいますね。
「天下分け目」の認識そのものへの異論
その認識が間違いやぞ
徳川にしろ豊臣にしろ朝廷を無視して軍部が暴走した軍事クーデターだから
明治維新で朝廷が復活するまで軍部に国が乗っ取られてただけ
今でいうミャンマーの状態が300年も続いてた
日本人は歴史を正しく解釈しろ
その解釈でも天下分け目の戦いで合ってるじゃん
全く歴史勉強してなそう
そもそも日本の天皇は教皇みたいなものであって
俗に言う皇帝や天子と言われるものではない
皇帝ならここまで地方分権のようなことは許さんやろ
最初から明治に至るまで皇帝ではく教皇というのが正しい
義務教育受けたか?
自民党の教育政策がいかに失敗だったか、日本人の英語力とコイツが証明してる
高卒の歴史認識ってこんなもんか
ここで、歴史解釈の根幹を揺るがすような異論が投下されます。「天下分け目」という認識そのものが間違いであり、関ヶ原は単なる軍事クーデターだったという過激な主張に、他のユーザーからは「歴史を勉強しろ」「義務教育を受けたか?」といった手厳しいツッコミが入ります。日本の天皇の役割に関する深い考察も示され、歴史認識の奥深さを感じさせます。
兵士たちの本音と「秩序なき時代」
自ら征夷大将軍を名乗り朝廷の権力を根こそぎ奪って形骸化させた
本来は朝廷が指名するものを自ら乗っ取った
こんなん歴史家の間では常識
関ヶ原の戦いは天下を無視した賊同士の争い
明治維新までそんな狂った時代が続いた
妄想ワロタw
それを300年以上放置した自治ができない国
それなら鎌倉時代からじゃない?
兵士の視点に立てば、自分がどちらの軍に属しているのかさえ曖昧な者もいたかもしれません。再び異説提唱者が、徳川による「朝廷の権力奪取」を主張し、関ヶ原を「秩序なき力先行の軍事クーデター」と断じます。これに対し、他のユーザーは「それなら鎌倉時代からではないか」と、日本の武家政権の歴史全体に言及し、議論の視野を広げます。
歴史認識のズレと現代への影響
だからほんまに大事な勝負の事を光秀と秀吉が戦った場所になぞらえて天王山とは言うけど関ヶ原とは言わん
天王山こそ後世に作られた嘘だけどな
朝廷に権力を戻すため
錦の旗印を掲げたから
そして徳川は屈服しようやくまともな時代が返ってきた
そこから爆速で悪の枢軸侵略国家が誕生して秒で核兵器投下されて鎖で繋がれた犬になるのおもろいな
後付けで豊かな時代に書き換えたのが日本史
洗脳が解けたか?
?
参政党とかすきそう
朝鮮みたいに万年属国であり続けた民族じゃなく
日本はずっと独立国家を保ちながら
トップには天皇が君臨し続けた
それは否定のしようがない事実
精神的なTOPと言うべきだな
権威と権力が別になってる国だからな
古代から現在に至るまで天皇が政治を行った親政の時期は少ない
殆どが天皇の任命した律令制の官僚や武家政権が政治を行ってる
今でも天皇が任命する内閣によって政治が行われてる
禁中並公家諸法度って知ってる?
徳川は権力と金を全て幕府に集中させて支配者となる制度
「関ヶ原が天下分け目の戦いという名称は後世の嘘」という主張から、日本の歴史認識、さらには現代社会への皮肉まで、議論は多岐にわたります。特に「禁中並公家諸法度」の詳細な解説は、徳川幕府が朝廷の権力をいかに統制したかを具体的に示し、先の異説に説得力を持たせるものでした。歴史の解釈がいかに多様であるかを改めて認識させられます。
西軍の「やる気」と島津の奮戦
朝廷を無視して権力を独占しようとする
賊同士の軍事クーデター
いや、内ゲバと言った方がいいか
でも、1割も死んでないってのが本当なら、島津の損耗率(1500人中帰還成功者60人)ってヤバくねぇか?んー死者5000人より多い気もするなぁ
なんでこいつら(島津)だけ「やる気ありまくり」だったんや?
義弘は半ば見放された感じで送り出された
その上負け側についちまったとかもう\(^o^)/オワタやから
カッコよく死んどこうて感じやろ
不利と見たらトンズラよ
全然バーサーカーじゃないし豊臣にも徳川にも媚びまくりでホンマ宣伝工作だけ上手い連中や
今でも源頼朝の末裔みたいな大嘘家系図を平気で掲載してるし
再び西軍の「やる気」に焦点が当たります。もし島津が大規模な鉄砲隊で参戦していれば…というIFの議論は歴史好きの常。特に、西軍の中で孤軍奮闘し、鬼神のごとき「捨て奸」で敵中突破を果たした島津義弘の戦いぶりは、多くの人を惹きつけます。しかし、その背後には見放された悲壮な覚悟や、後世の宣伝工作があったとする見方もあり、複雑な人間模様が垣間見えます。
戦国時代の合戦、その実像
大多数の陣夫などの農民は非戦闘員で戦ってなかったってことやね
そもそも首実検にも冑首以外恩賞にならないって書いてあるからね
武田軍は約4,000人、上杉軍は3,000人
合戦ガチ勢は違う
人数などの戦果はほぼ誇張
損害の多さは名有りの兵や武将の死亡数でしか分からん
長篠の戦いは武田四天王や幹部、幹部候補生と死んだ奴らが多すぎるから被害甚大だったのが分かる
逆に手取川の戦いなんて死んだ名有りが少なすぎて誇張なのが分かる
長篠はバンバン死んでなかったか?武田側
名有りの死亡数が半端なかったから損害が大きかったの分かる
武将の強さで勝率とか言ってるのはほぼ無意味
5回負けたとしても一回の致命傷与えれば敵は滅ぶからね
徳川的には九州には加藤を残してお互いに睨み合いさせてた
東の伊達は多分江戸を抜いてこれないと読んでたんだろね
秀忠もわざとチンタラ時間かけて真田にちょっかい出したりしながら行軍してた
伝令が遅れただけ
むしろ怒られた理由は伝令受け取ってから昼夜問わず行軍した挙げ句
兵を置き去りにして到着したこと
戦国時代の合戦の実態は、現代の想像とは大きく異なることが示唆されます。実際に戦闘に参加したのはごく一部の武士や足軽であり、農民兵は非戦闘員が大半だったという説は興味深いですね。また、戦果や損害の記録がいかに誇張されがちであったか、そして「名有りの武将の死」が戦の帰趨を物語るという視点も、歴史を読み解く上で重要です。秀忠の遅参に関する新事実も提示され、深まる歴史の謎が読者の知的好奇心を刺激します。
【深堀り!知的好奇心】関ヶ原の戦いの真実と史料の限界
関ヶ原の戦いは、1600年(慶長5年)9月15日(旧暦)/10月21日(新暦)に現在の岐阜県関ヶ原町で行われた、日本史上最も重要な合戦の一つです。東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)という二大勢力が激突し、徳川の勝利により江戸時代の幕府政治(徳川幕府)が成立しました。
🪖 参戦規模と兵力について
史料では、関ヶ原合戦の兵力についておおよその規模が確認されており、東軍約75,000人、西軍約79,000人、合計で約15万〜17万人程度の総兵力が動員されたとする記述があります。ただし、「17万人」という具体的な数値は近代以降の研究や史跡解説、旧帝国陸軍史料等で語られることが多く、戦国期の正確な軍勢数は一次史料がないため、各種説が存在することを理解しておく必要があります。
🩸 死者数についての史料的確証
合戦における死者数の正確な史料は存在しません。史料や古文書による確定数値はなく、各種後世の書物や観光用説明で「約8000人」「数千人」という推定が示される程度です。「東西両軍あわせての5000人」という数値は史実史料による確証はなく、後世の統計推定や民間説に基づくものです。しかし、「多数の死者が出た」という総体の認識は歴史学的にも認められています。
🪓 合戦の性格と「天下分け目」
史料では「関ヶ原の戦い」は東軍と西軍の全国的大戦であり、全国の大名が参陣した大規模合戦と記述されています。徳川家康の勝利がその後の日本統一・江戸幕府成立につながったことから、「天下分け目の戦い」として歴史的意味が確立しています。ただし、この「天下分け目の戦い」という認識自体が後世の創作であるという異説も存在します。
🔹 「やる気はなかった?」の真偽
この主張は、戦国時代における兵士の動機や合戦参加の実情から派生する議論です。史料からは、「両軍とも本気で戦った」ことが読み取れています。合戦は数時間で決着がついたとも言われていますが、それは集団戦の戦術と地形・戦況の影響によるもので、「やる気」の有無を示すものではありません。実際、毛利輝元は西軍総大将でありながら戦場には姿を見せず、小早川秀秋の裏切りは戦況を大きく左右しました。また、島津義弘は当初徳川家康への援軍を拒否され、西軍に加わった際には少数の兵しか動かせなかった背景もあります。特に、西軍総大将であった毛利輝元は、豊臣政権内の五大老の一人でしたが、大坂城に留まり関ヶ原の戦場には姿を見せていません。彼の不参戦や吉川広家らの内応は西軍の士気に大きな影響を与えたと考えられます。
💡 知ってた?
戦国期の軍隊は武士階級が中核ですが、足軽や各種下級兵士が大勢参加して戦闘を行いました。「農民が戦っていない」というのはある程度一般的な理解ですが、大名によっては農民兵も動員された例もあります(史料による一部実例あり)。一般史料では合戦時の兵力は主に武士及び足軽兵が主体だったとされます。
関ヶ原の戦いを巡る様々な意見や歴史的考察は、その複雑さと奥深さを示しています。単純な二元論では語れない、多くの側面を持つこの戦いは、現代の我々に歴史を多角的に捉えることの重要性を教えてくれます。今回の議論が、読者の皆様にとって新たな歴史探求のきっかけとなれば幸いです。
関連リンク
- Battle of Sekigahara — English Wikipedia
- 関ヶ原の戦い — 日本語Wikipedia
- 関ヶ原合戦の歴史解説 — Nippon.com
- 毛利輝元と関ヶ原の戦い — 刀剣ワールド
- 小早川秀秋の裏切り — わか歴!
- 禁中並公家諸法度 — 刀剣ワールド
- 島津義弘の関ヶ原の戦い — 刀剣ワールド
- 天下分け目の関ヶ原合戦はなかった — 河出書房新社
- 関ヶ原の戦い なぜ決戦の舞台は関ヶ原だったのか? — YouTube
- 関ヶ原の戦いが起きた背景 — 進研ゼミ
※本記事は掲示板の投稿をまとめたものであり、その内容は個人の意見に基づいています。