
「難解」「で?」と言われがちな西田哲学。スレでは“役に立つの?”の一点突破で殴り合いが発生し、ついにはアナル哲学まで飛び出すカオス展開に。
でも、この反応そのものが、現代の実学至上主義と知の空洞化を映す鏡だったりする。
- 西田幾多郎は『善の研究』などで日本哲学を体系化したが、難解さゆえ一般には届きにくい。
- 評価軸が「何の役に立つ?」に寄ると、存在論や価値の問いは市場価値で測れず周縁化されがち。
- 戦後の文脈(京都学派・戦時協力の影)も重なり、純粋な理論としての再評価が進みにくい。
この世界には「現在」という捉え所のなく過去から切り離された地点しかなく、しかも現在において成り立つ事実は絶対的な事実であるというのがベースの考え方や
そこから仏教的な善を提唱したり、西洋哲学と合流した
多分だけど概念的すぎて多くの人が「で?」ってなっちゃったんじゃないかな
哲学ってそういうの多いよな
もうちょいロバスト側に振って社会実装まで考えればいいのに
すごい
1行目の半分で意味が分からん
ただのヘーゲル弁証法やぞ
現在は過去との無限の二律背反だから決して捉え所がなく、しかも対立的だから過去からは切り離されている
そして現在において成り立っているあらゆる現象(=事実)は過去からの必然だから「もしも」の世界が成り立たない(=絶対的、唯一的)
量子力学から観察すると、観察者バイアスがかかるわけでしょ。お前の思い込みやん
量子力学に観察者バイアスなんて概念あったっけ?
観測問題または観察者効果しか聞いたことないな
観察方法によって、結果が変わる
それは観察者効果やな
あと時間と空間は直観の形式だというカント哲学を踏襲しているから「認識は主観的だよな」という立場に全く肯定的な上、観測者効果は物理的挙動の話であり哲学思想への批判として完全なるミスマッチや
つまるところ批判として意味不明やな
カントの理性論じゃなくて物理学だよ
物理学の結論に全く肯定的だって話をしてるのに何が言いたいんだろうね
悟性っていう教科書に載ってるレベルで有名な用語法を飛ばして「理性」とか言ってる辺りがお察しやね
理性はなんだと思う?哲学は理性から離れたでしょ、理性なんかないんだよ。思い込みなんだよお前みたいに
でそれはなんの役に立つんや
現在しか存在しないなんて古代からある思想だろ
オリジナリティゼロやん
アウグスティヌスのこと言ってるんだとしたら草生えるわ
全く別のアプローチだぞ
流石に無知すぎて草
反論できなくて草
じゃあ老子から絶対矛盾的自己同一の趣旨と取れる節を引用してみろよw
老子の思想の補足してるだけやんそれ
ええからはよ反論してみて
哲学知らんワイでも聞いたことある
仏教と西洋思想の合流しか知らんのがオチやろなぁ…
草
マウントとりたいだけやん
実際京都学派自体がそういう評価を受けてるし、日本哲学として確立されとらんのよ
具体的に何が良くてどういう社会的影響があったの?
良かった点:ヘーゲル弁証法を存在論に輸入した現代的意義、東洋哲学と西洋哲学との合流地点を明確に示した歴史的意義社会的影響:影響力を武器に戦争協力論を唱え戦時体制に加担、京都学派の中核を担うも敗戦後特に影響なし
用語解説・TIPS:ここだけ押さえるとスレが読みやすい
絶対矛盾的自己同一:ざっくり言うと「矛盾を抱えたまま“いま・ここ”で自己が成立している」という発想。
絶対無の場所:存在するもの/しないものを分ける“土台”を「場所」として捉えるイメージ(比喩が多くて誤解されやすい)。
スレ住民の「で、何の役に立つ?」は、現代の実学至上主義の典型的リアクションでもある。
※哲学用語は“厳密定義”よりも“議論のレンズ”として機能することが多い。ここでつまずくと永遠に「で?」になる。
そういうのって哲学の人達にとって重要なだけってことないの?
具体的に言うと日本オリジナルの哲学を初めてやった人、みたいなことだと思うけど一般教養レベルでどういう要素が思想的に重要なの?
簡単におせーて
絶対矛盾的自己同一:現在という時点において、実在の中でA∧¬Aが成り立つこと(ex:自己言及的な認知)絶対無の場所:実在が現在において存在しない(=無)ものの、時間的•空間的に広がりを持っており、これが場所的であること
所詮人間である事から脱却出来ないしやるだけ時間の無駄
俺も大学時代はいっぱしに現代思想の本とかよんでたが、社会人になったらそんなもん読む時間も余裕も意欲も霧散した
哲学者って色々と言葉をこねくり回してるだけで
結局は「語りえぬものは沈黙するしかない」んや
それ以上の結論はない
それを存在論が専門の西田幾多郎のスレで言われても…
その全ては無意味や。哲学はゴミ
でもその発想を認めさせたのは他でもない哲学者•カントだよな
ハートウィグの偉大さが周知されていない社会であればそれは立派に有意義なことやぞ
だとしたら西田幾多郎も同じなんやないんか?
何で悲しいんや
割とシンプルやで
本性から善行を行うことや。仏教でも「助けたい」という欲求から助けるより、助けたいと思わずとも助けている状態が望ましいと言われとるやろ
それと完全に同じや
善きサマリア人とかスジャータ的なやつか
うーん、アプローチが違うと思う
カントは善の根本的な定義
西田幾多郎は善行の根本的な定義って感じかな
仏教だけやとそれはただの宗教やからな
哲学として輸入できる発想だけを取り込むんや
実際、菩薩なんかは微塵も出てこんな
西田は宗教に対してはどういう見解だったん?
キリスト教:中途半端に隣人愛の教えに言及するだけ
仏教:般若波羅蜜における無常観に深く言及(ただし仏教の是非を語ってはいない)
なるほどほんとにいいとこ取りしてる感じで深く追求と言うか研究までするようなスタンスではないのか
ちなみにさっき言ってた取り込んだってのは仏教のどんな考え方を哲学として取り込んだの?
まさに仏教的な無常観と、禅宗の即心是即仏(心が万物である)という考えや
前者は「この世には現在しかない」という考え方、後者は「絶対無の場所」として西洋哲学との合流が図られてるで
前者の「現在しかない」ってのは言い方変えると「現在は存在する」って西田は言ってんの?
そら言ってるで
今ある自己の中で矛盾が成り立ってる←これが絶対的な事実
例えばどゆこと?
例えば人間の反省的な認知やなAという人が躓いたとする。Aさんは躓いたという事実を把握するとともに、主体として現に躓いているこの時、Aさんは反省的に思考するAと、反省的に思考されるAとに分かれる。主体かつ客体というのが矛盾的であり、その矛盾が一つの自己の中にあるというのが自己同一やな
なんで矛盾なん?
てかなんで矛盾的ってことになんの?
そら主体が客体というのは全くおかしな話だからや
自分の眼で自分の眼を覗き見るというのは不可能やろ?これは形式論理でも同じで、Aに言及できるのはA以外なんや(だからA≔Aはトートロジーであり無意味とされる)。つまり少なくとも¬Aの元やね。そしてA∧¬Aというのは矛盾であるから、形式論理でも不可能というわけや
しかしこれが時間と存在について考えたら、現在の瞬間瞬間においては成り立ってるんや(まさに我思う故に我あり)。ここで形式論理からはみ出して、矛盾を組み込もうというのが西田の発想や
本当にごめんやけど
だから何?って思ってしまう
やっぱり文系って意味のないことやってるな
その主体客体なんててめえで勝手に分けれることるだけで、しかもその主体客体が矛盾的というのも主体客体とてめえで勝手に名付けただけの結論ありきのものやんアホクサ
結局てめえの言葉の定義をてめえの言葉の用法で説明してるだけ
西洋哲学ってそこに留まってるからバカなんだよ
まあ批判したいならせめて勉強してきてくれや
カント的な主客二元論は「自覚について(論文名)」の中でキッパリと捨ててるで
そして西田はヘーゲル的な唯心論を批判しつつもただ註釈を加えただけや
当然ニーチェよりすごいで
というかニーチェは道徳に議論の的が寄り過ぎで、現代哲学では基本的に評価されていない
徳倫理学のようなべき論がメインの分野でしか扱われていないし、ニーチェは西田と比べるまでもなく凄くない人
必要とされないね
うんち中のアナルは瞬間瞬間においてうんちをホールドしつつ外に投げてるってことや
所詮この程度
学問的意義は客観的に語れても意味は受け手が全てだからな
お前にとって何の意味があるのかなんか知らねーよ
いや、だからこれが分かったことによって世界の何が変わったんや?
マルクスとかそーゆー人達の考え方で世界は変わったりしたけど
この人のこれは何がどう変わったんや?
答えろや
学問的意義は既に応えてるぞ
レス読まない分際で偉そうに質問してんじゃねーよカス
違うで
我思う故に我有りだけだとただの唯心論や
西田の発想は「思う我と思われる我のジンテーゼとして具体的現在の我が有る」という動的な存在論であって、唯心論を明確に超えてんで
「主観と客観の統一」と言うが、それはどのような構造か?
どのようにして統一されるのか?統一は経験的に検証可能か?
西田は「場所」「具体的現在」といった語を使うが、それらは比喩的であり、
厳密な論理的定義になっていない。つまり「統一されている」と言い換えているだけで、統一の機構を説明していない。
フッサールやメルロ=ポンティの立場から言えば、
主観と客観はもともと分裂していない。
意識は常に「志向性」を持つ。
つまり意識は最初から世界へ向かっている。
「思われる我」という第二の自己を立てる必要がない。
すると、ジンテーゼは問題を誤って立てた結果である。
対立を前提して、それを統一すると言っているが、
その対立自体が西田による人工物である。
自己は神経活動の機能的統合にすぎない。
すると、「思う我」と「思われる我」を統一する実体など存在しない。
あるのは、
・認知過程
・自己モデル
・社会的フィードバック
だけである。したがって、「具体的現在の我」は形而上学的虚構である。
・対自存在(pour-soi)
・即自存在(en-soi)
その緊張こそが人間である。
統一された「具体的現在の我」などない。
あるのは不安、欠如、自己逃避である。
つまり、ジンテーゼは人間の分裂を過度に調和的に理解している。
論旨を通せない甘さ
深掘りリポート:なぜ「西田哲学」は再評価されにくいのか?
スレの空気を要約すると、論点はほぼ「で、何の役に立つ?」に収束していました。これは思想の優劣というより、
現代社会が採用している価値の物差し(即効性・成果・数値化)そのものの問題です。
- 抽象度が高い:西田は矛盾や「場所」を扱い、直感的に理解しづらい。結果、入口で「で?」が発生。
- 市場価値で測りづらい:実学至上主義の社会では、存在論・価値論は“費用対効果”で不利。
- 戦後の評価の影:京都学派・戦時協力の文脈で語られやすく、純粋理論として読まれにくい。
- エンタメ的消費:SNS/掲示板では「勝ち負け」「マウント」「ネタ化」が先行し、丁寧な読解が起きにくい。
FAQ
A. “矛盾は排除すべき”という形式論理の常識をいったん外して、自己や時間の経験では
矛盾を抱えたまま成立している局面がある、と捉える発想です(スレでは「主体/客体」の例で説明)。
A. 西田哲学が狙うのは“手段(How)”よりも“前提(Why)”の更新。
ただ、現代は成果が数値化されやすい領域が優先され、価値の問いが周縁化されがちです。
A. 技術やノウハウは増えるのに、「何のために」「何を善とするか」という議論が薄くなる状態。
スレの「だから何?」が象徴で、問いの射程が短くなりやすい。
A. “役に立つ/立たない”以外の評価軸(人間観・自己観・倫理観の再設計)が必要。
西田を読む意味は、結論の採用よりも思考の地盤を揺らすところにあります。
編集部の一言
「で、何の役に立つ?」は強い。強すぎて、思考の射程を短くしてしまうこともある。
西田哲学が“刺さらない”のは、内容以前に、社会が刺さる形の知しか拾い上げにくくなっているからかもしれない。
なお、アナル比喩は勢いとしては優勝。
- 【元スレ】【悲報】日本が産んだ20世紀最大の哲学者西田幾多郎、日本人は見向きもしない…
https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/1770822628/ - Stanford Encyclopedia of Philosophy:Nishida Kitarō
https://plato.stanford.edu/entries/nishida-kitaro/ - Internet Encyclopedia of Philosophy:Nishida Kitarō
https://iep.utm.edu/nishida/