
日本の歴史に燦然と輝く「織田信長」という存在。私たちは彼を「革命児」や「革新者」として教えられてきました。しかし近年、その従来の英雄像に真っ向から異を唱える新説が提唱されているのをご存知でしょうか。「信長は普通の戦国大名だった」という衝撃的な見解。果たして、この新説は私たちの歴史観をどう書き換えるのでしょうか?
前提知識・背景
織田信長は長らく「革命児」「革新者」「第六天魔王」といった類稀なるイメージと共に語り継がれてきました。しかし、近年歴史学界から、その従来の英雄像に疑問を投げかける新説が提唱されています。すなわち、「信長は特別ではなかった」「普通の戦国大名だった」という見方です。この見方は、私たち日本人が長年抱いてきた歴史上の偉人に対する固定観念を揺るがし、世間では熱い議論を巻き起こしています。一体なぜ、このような歴史的再評価が進むのか、その背景にはどのような学術的根拠があるのでしょうか。
「普通」の定義を巡る攻防
癇癪持ちはむしろ秀吉
残虐性は明智光秀
領土の拡大とか、どう考えても普通じゃないだろ
キャラは立ってなかった
ってことやろ
スレは早速、「普通」の定義を巡る議論でヒートアップ。スレ主の「どこが普通やねん」という問いかけに対し、他のユーザーからは具体的な反論が飛び交います。しかし、ここでいう「普通」とは、一体何を指しているのでしょうか。キャラが立っていなかった、ということなのでしょうか。
「革新者」信長への再評価の波
織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前の通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで
>ちょっと専門的な内容。「楽市楽座」は、信長が始めたわけでもなく、習ったような内容でもなく、自由経済の先駆けのように捉えるのは、後の世の偏った見方のようだ。敵国の近くなど戦略上重要な場所に人を集めるために、安心して商売ができるよう保護したのが「楽市」で、「楽座」の事例は少なく、内容も「座」を廃することではなく、座からの徴収金を減らして商人にとって楽になるという意味であった。教科書で習った「楽座」=「破座」は秀吉の時代の話であるようだ。歴史の教科書はどんどん変わっていくので、世代間の常識に隔絶が生じるなあ。
>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652
●織田信長の史実に最も近い肖像画
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている


この大徳寺の肖像は生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと考えられ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。つまり全ての信長肖像のオリジナルがこの作品である。
また一部で”宣教師が描いた信長”と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に偽物であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、既存の肖像画からイメージして作成したモンタージュの類いだろう。
“我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、
毛髪と言わず骨と言わず灰塵に化さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上に何ら残存しなかったということである。”
~ルイス・フロイス『日本史』~
人殺しの目をしてますわ
桜井章一みたいな感じか
ここから、具体的な学説の紹介が始まります。楽市楽座や兵農分離といった、かつて信長の革新性として語られてきた政策が、近年の研究では再評価され、他の大名も類似の政策を行っていたという見方が広がっているようです。また、信長の肖像画に関する新たな知見も紹介され、定説がいかに揺らぎやすいものかが示されます。
「天下統一」と本拠地移転の意義
朝倉義景とか今川義元とか
三好長慶とか
普通にできてたやろ
後者はガチで一時期覇権やったけど前者はちょっとね
今川は無理やろガイジか?
無理な理由は?
むしろ出来る理由なんやねん
無理な理由が一つもない
できる理由が一つもないとも言える
行動力 うたれたのは上洛中
領土 駿河三河遠江の支配者
有能度 海道一の弓取りできる理由しかないだろ
最後に一つ
バカは黙ってろ
一門衆とよべるの吉良氏・渋川氏・石橋氏やろ
今川は吉良の庶流にすぎん
吉良の次は今川やから一門衆筆頭やろ
違う
今川なんて吉良家とかより家格が下なの知らないド素人やんけ
なら義景義元三好残党蹴散らした信長凄いやん
朝倉義景に大敗してるし
今川にも暗殺で勝ったことにしてるし
三好くらいやろ
重臣も討死しまくってんのに義元暗殺扱いってガイジやん
本拠地を次々に変えた事
土地に縛られてたほかの大名家ではなかなか出来なかった
具体的にどう変えたんや?
ずっと岐阜城やったけど?
那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と変わってるが
他の大大名は領地が増えても本拠地は変わらん
最初は那古野城
次の居城が有名な清州城になって小牧山城を挟んで岐阜城安土城に移る
版図拡大しただけやろ
終盤の安土以外ほぼ岐阜城やん
別にすごくはなくね?
他の大名はそれすら出来ないんだよ
武田信玄はずっと躑躅ヶ崎館だし、上杉謙信は春日山城
北条氏康は小田原城、毛利元就は吉田郡山城からずっと動いてない
版図拡大してないだけやん
支配地域増えてないなら
移動する必要ないやろ
頭悪すぎて反論出来なくなってて草
有利な所に移るのは秀吉もしてることだし一つの戦略なのにわからなさそう
頭悪いのは
だれでもやってることをさもすごいことのように言うてるおまえやんwww
信長は引っ越ししまくったからすごい理論草www
信長の「天下統一」への意識や、本拠地を次々と移転する戦略が議論の対象となります。特に「本拠地移転」については、他の大名と比較され、それが革新的な行動だったのか、それとも版図拡大に伴う自然な成り行きだったのかで意見が対立しています。このあたりの解釈も、学説によって大きく変わってくる部分でしょう。
室町幕府の評価と「新時代」の到来
230年も続いた室町幕府がダメ政権の代表みたいに言われるのが一番おかしい
それ以前の平氏政権は20年 源氏政権も30年程度
足利政権崩壊後に出来た織田政権15年 豊臣政権20年
当時の人間は徳川幕府なんて知らないわけで武家政権の中では足利政権こそが史上空前の安定長期政権という
認識だったと思う
年数は長いが社会が不安定すぎるからね
大体関東武士が悪い
まあ関東に幕府を置けばよかったのにやらかして置けなかったのが悪い
でも京で暮らしたいやん
鎌倉公方
『ミニ幕府はあったぞ』
上杉
『何故か関東管領と鎌倉公方の戦になったゾ』君らさぁ…
当時の関東って今で言うと秋田みたいなもんやろ
そりゃあ文化の進んだ京都がいいよ
と言うより北条の戦が天皇(京都)との戦いで
続く南北朝も京都の動乱だから
京都に幕府置いて監督するは間違いではないかとただ、関東任せた鎌倉公方が今度は統制出来なくなあ
信長個人から話は広がり、室町幕府の評価、さらには関東と京都の力関係といった、より広範な歴史的背景にまで議論が及びます。230年続いた室町幕府が「ダメ政権」と評されることへの疑問は、当時の人々の視点から歴史を捉え直す重要性を提示していると言えるでしょう。
「天下布武」と戦国大名の常識
わしらは信長の義昭追放をもって室町幕府終了って認識やけど同時代の人の認識的には将軍が京から追放なんてよくある事、本気で新時代が到来したと認識しだしたんは秀吉の惣無事令からだそうな
京都から追放された将軍て義昭以外は誰がおるっけ?
義輝
義晴、義輝
追放されたっけ?
落ちのびたのは覚えてるけど記憶が曖昧や
ありがとうな
義昭が正式に将軍職返上したのは信長死後やからな
信長の「天下統一」に対する意識が、当時の他の大名と比較してどれほど特異だったのか、という点も議論の焦点です。同時代の視点から見れば、信長の行動は三好氏の延長線上に過ぎず、真の「新時代」は秀吉の時代から始まったという意見も提示され、私たちの常識が揺さぶられます。
「失敗がない」信長神話の終焉?
やることなすこと全部的をいていて一度も失敗がない(本能寺の変は除く)
最後が致命的や
いうてあんなガイガイムーブ予測するのも難しいし
ハゲ煽りはアカンと後世に遺してくれたんやね
最近じゃもう黒幕なんか存在せず光秀の突発的な野望説でだいたい結論出てるからな・信長と秀忠が偶然同じ場所にいる
・警備も手薄で自分は手勢を率いてる
・有力家臣団は遠征中
秀忠なにしてんの草
【悲報】徳川幕府
初代で血脈が途絶える
信康「」
敗戦も多いし、部下の裏切りも多いが?
金ヶ崎はマジでヤバかっただろ
すまんが信長が敗戦したというのはなんだ?俺は一つも知らない
朝倉に大敗して
もう天下は目指しません
朝倉殿が天下を治めてください
と言わされてるやろ
さすがに朝倉と一向一揆は知ってるやろ
いるよね、こいつは無能と決めつけて自分が偉くなったと思うやつ
そういう意味ではないやろ
信長は「一度も失敗がない」という神話に対し、金ヶ崎の退き口や朝倉・一向一揆との戦いを引き合いに出して反論がなされます。本能寺の変についても、最近の学説では黒幕説が否定され、光秀の突発的な行動とする見方が有力になっているようです。これまでの信長像がいかに「後世の創作」によって形作られてきたのかが浮き彫りになります。
【深堀り!知的好奇心】「普通」の信長像が生まれる学術的背景
近年、織田信長が「普通の戦国大名」として再評価される潮流は、単なる逆張りや奇をてらった学説ではなく、歴史学における実証主義の深化と、新たな史料解釈に基づいています。その学術的背景には、主に以下の点があります。
天下概念の再定義と信長の「前時代性」
従来の「天下統一」は日本全国の支配を指すと考えられてきましたが、池上裕子氏らに代表される近年の研究では、戦国期の「天下」が京都とその周辺の畿内を指す限定的な意味合いで用いられることが多かったと指摘されています。これにより、信長の「天下布武」も、全国制覇というよりは、畿内支配を確立するものであったと解釈され、信長が室町幕府の「ナンバー2」的な存在として畿内を統制しようとした「前時代性」が指摘されるようになりました。
政策の革新性に対する再検証
- 楽市楽座: 信長以前に六角定頼や今川氏真などによって既に施行されており、信長はそれを模倣し、自領で完成度を高めたに過ぎないとされます。
- 兵農分離: 実証的な研究では信長が理論的な形で実施した証拠は「ほとんどない」とされており、これは明治以降の「造神主義」的歴史観によって信長に付与されたイメージであることが示唆されています。
多くの政策が、信長独自の創出ではなく、時代背景や他大名の施策を取り入れたものであるという見方が強まっています。
「長篠の鉄砲三段撃ち」も、一部研究で史料的な確証が薄く、後世に膨らんだ可能性が指摘されています。革新的な戦術で勝利したという“ドラマ性”は、後の評価の側面が強いかもしれません。
このような歴史認識の変遷は、現代社会に大きな影響を与えています。長年定着してきた英雄像が揺らぐことで、一般大衆は歴史学界に対し「定説を覆すことで注目を集めている」といった懐疑的な目を向ける傾向があります。しかし、これは歴史学が常に新たな史料の発見や解釈方法の進化によって、過去の事象をより多角的に、そして客観的に捉え直す営みであることの証左です。歴史上の人物を特定の枠に押し込めることなく、複雑な時代背景の中でその役割を理解しようとする姿勢こそが、現代の歴史研究の根幹をなしていると言えるでしょう。信長の再評価は、私たちが歴史を「物語」として消費するだけでなく、「史実」として深く探求する重要性を改めて問いかけています。
関連リンク
- Oda Nobunaga Through a New Lens: Historians Are Overturning the … – Japan Forward
- 「楽市楽座」を推し進めたのは信長ではないのに – 歴史人
- 戦国武将・信長の本当の姿と最新研究 – Japaaan(2025)
- Oda Nobunaga — Biography & Significance – Britannica Biography
- 楽市楽座令研究の軌跡と課題 – 研究論文PDF
- Battle of Nagashino – Wikipedia
- Oda Nobunaga | Research Starters – EBSCO
- Oda Nobunaga – Wikipedia
- Analyzing Oda Nobunaga Revolutionary or Not – 歴史系Lecture:信長像の変遷
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