【深掘り調査記事】Aマッソは「アンチ女」だったのか?
女性芸人10年間の地殻変動
5ちゃんねるのあるスレッドに、「10年くらい前はAマッソがアンチ女のお笑い感が出過ぎていて笑いづらいみたいな評価をされていたけれど、最近のお笑いはどんな感じなんやろか」という、非常に鋭い問いが書き込まれました。
この問いは、この10年で「女性芸人」という存在、そして彼女たちを見る我々の価値観がいかに劇的に変化したかを浮き彫りにします。かつてAマッソに向けられた「アンチ女」という評価は何だったのか。そして、横澤夏子、3時のヒロイン、ヒコロヒーといった現代のスターたちと比較することで、女性芸人たちの表現と、それを受け取る社会の「現在地」を探ります。
1. Aマッソが「アンチ女」と評された時代の空気
2010年代中盤、Aマッソが登場した当時のお笑い界で「女性芸人」の主流といえば、「女性のあるあるネタ」や「恋愛や容姿に関する自虐ネタ」でした。横澤夏子さんに代表されるような、女性の生態をデフォルメして共感を呼ぶスタイルが、一つの完成形として存在していました。
その中で、Aマッソのスタイルは異質でした。彼女たちのネタは、シュールな設定や練り込まれた構成、言語遊戯を多用するコントが中心。そこには、多くの人が「女性芸人」に期待する「女子トーク」的な共感や、分かりやすいキャラクターは存在しませんでした。
「アンチ女」という評価は、この点に起因すると考えられます。つまり、彼女たちは「女性であること」をネタにしなかった。むしろ、ジェンダーを切り離した純粋なアイデアと構成で勝負するその姿勢が、当時の視聴者の一部には「女性らしさから意図的に距離を置いている」「女性であることを否定している(アンチ女)」と映ったのです。
2. ポストAマッソの多様性:「女性性」との多様な向き合い方
Aマッソが切り拓いた道は、後の世代に「女性芸人の在り方は一つではない」という大きな可能性を示しました。現代の第一線で活躍する芸人たちのスタイルは、見事に多様化しています。
- 横澤夏子:
「女性性」を観察し、類型化する達人
日常に潜む女性たちの生態を精緻に観察し、「こういう女、いるいる!」という共感を引き出す天才。彼女のスタイルは、「女性性」を客観的に捉え、笑いのための「型」として見事に昇華させています。 - 3時のヒロイン:
「女性性」をポジティブに肯定し、謳歌する
恋愛ネタや容姿に関するネタを扱っても、そこに湿っぽさや自虐はありません。「アッハーン!」という決め台詞に象徴されるように、彼女たちは自らの「女性性」を明るく肯定し、パフォーマンスとして楽しんでいます。 - ヒコロヒー:
「女性性」を切り離し、「個人」として存在する
「国民的地元のツレ」を自称する彼女の芸風は、極めて個人的です。麻雀や酒、タバコといったライフスタイルから生まれる、気怠くもリアリティのある一人語り。彼女は「女性芸人」という枠ではなく、「ヒコロヒー」という一個人のキャラクターとして確立されています。
この比較から分かるのは、「女性性」との向き合い方が完全に自由になったことです。観察対象とする者、肯定し楽しむ者、そして意に介さない者。Aマッソが「女性性をネタにしない」という選択肢を提示したことで、表現の幅は爆発的に広がりました。
結論:解体された「女性芸人」という枠
10年前、「女性芸人」という言葉には、「女性のあるあるや自虐をネタにする人」という、暗黙の定義が存在しました。Aマッソへの違和感は、その定義から外れていたために生まれたものです。
しかし2025年の今、その定義はもはや意味をなしません。『女芸人No.1決定戦 THE W』の成功もあり、多種多様なスタイルの芸人が評価される土壌が整いました。視聴者もまた、「女性芸人だから」という色眼鏡を外し、一個人の芸人としてその面白さを判断するリテラシーを身につけています。
もはや、「最近の女性芸人はどんな感じ?」という問いは、「最近の男性芸人はどんな感じ?」と問うのと同じくらい、一言では答えられないものになっています。それは、女性芸人たちが「女性」という属性から解放され、一個の「芸人」として勝負できる時代が、ようやく本格的に到来したことを示しているのかもしれません。